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御言葉にいきるBIBLE MESSAGE

人の弱さを通して働かれる神

リッターガルド教会(スウェーデン)牧師 フレデリック・リグネル

   
 私は、使徒3章1-6節の話を思い出します。
「ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」という話です。門のところに座っていた人は「施し(お金)を求め」ましたが、ペテロとヨハネは、「私にあるものをあげよう。・・・・歩きなさい。」と言いましたね。

   
 実は、私には二人の子ともがおります、ひとりは26歳の娘、もう一人は23歳の息子です。今は二人とも独立していますが、娘は長いあいだ大変な病気で苦しんできました。18~19歳の頃がとても厳しかったのですが、彼女はすぐに自分を傷つけてしまうので、何度も救急車の世話になり、閉鎖病棟で24時間監視が必要だったこともあります。長い間病院を出たり入ったりの日が続きました。また17歳の時には妊娠して、男の子を生みました。現在その子供は8歳になりましたので、私はお爺さんなのです。このような厳しい状況が何年も続きました。少しづつ良くなってきましたが、まだ、苦しみの中におります。私にとって、この経験は大きな痛みを伴うものでした。家庭が壊れていくような時でしたから、私は講壇に立てなかったこともありました。奇跡的に癒されるように何度も祈りましたが、そのようにはなりませんでした。苦しみと痛みの中に少しずつ平和が来て、神の恵みよって講壇に立てるようになりましたが、完全に癒されたのではなく、苦しみを抱えたまま、主に仕えています。

   
 神様は、完璧な世界ではなく、まるで呪われたかのようなこの地上に来られました。神様は、不完全な人間に“受肉”されました。それは本当に大きな慰めなのです。ときには、奇跡が起こり、環境を劇的に変えられますが、厳しい環境を用いるという奇跡も起こされると考えてください。奇跡は癒されることだけではなく、それを包みこんで働きを進める奇跡もあるのです。私たちは罪責感と恵みを対比して考えたがりますが、私の経験から言うと、平和や和解は、罪責感もすべてのものを包みこむようなことだと言えると思います。

   
 パウロは、コリントの教会で、“弱々しいので使徒でない”と言われたようです。コリントの人達は、リーダーは強いはずなのに、彼はそのような人でなく、とても弱く、何度も牢獄に入れられた。だから彼はリーダーではないと思っていたようです。パウロは文章を書ける人だとは思われていたようですが雄弁ではなかったので、ダメだと言われたのです。その彼が、第二コリントの手紙を書きました。そこには、“私をよく見てください。演説は力強いし、たくさんの地域をまわって多くの教会を作り、悪霊を追い出し、病人を癒した”などとは書きませんでした。逆に、“私はとても弱いです”と、自分の傷や痛みのことを書きました。どれほど大変だったかを正直に書きました。福音は奇跡だけでなく、弱さの中にあることを示したのです。

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