エペソ二章八節~十節を読みましょう。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
ここに、神様は私たちを良い行いに歩むように造られたとあり、その「行い」はあらかじめ、あなたのために備えてあるとあります。自分のことは自分で、しっかり考えなさいと言うのではなく、あなたのためにすべてのことが備えられていますと言うのです。
ここから私たちが、どのような神様の作品であるのかを考えて見たいと思います。
私たちのアイデンティティ
作品のことは、ギリシャ語で「ポイエーマ」と言うそうです。例えば、ある子どもが折り紙で鶴を作れば、それはその子どもの「ポイエーマ」になり、誰かが建物を建てれば、その建物はそれを建てた人の「ポイエーマ」となります。神様が人を造られたという事は、人は神様の「ポイエーマ」であって、「神の主権による作品」だということを意味します。それには、作者である神様の心が込められているものであって、作者の意図が表現されているものであることになります。創世記一章二十六節を見ますと、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」とありますので、人間が造られた当初は、神様と同じようだったのですが、罪のために神から離れてしまい、神様の作品に本来あった輝きを失ってしまいました。でも、イエス様がこの世界に来られ、ご自身を十字架で犠牲にされることを通して、私たちを神様の作品としてくだいました。私たちのアイデンティティ(本来あるべき姿・場所)はイエス様にあるのです。
エペソ書一章には「キリストにある」という表現が八箇所以上もあって、それがこの章のキーワードになっています。簡単に記してみますと、
3節「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福」
4節「神は、私たちを選び・・・・傷のない者に」
5節「神は私たちをイエス・キリストによってご自分の子に」
6節「神がその愛する方にあって与えてくださった恵み。罪の赦し」
8節「 この恵みを・・・私たちの上にあふれさせ」
9節「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」
12節「・・・神の栄光をほめたたえる・・・」
14節「約束の聖霊によって証印・・・御国を受け継ぐことの保証」