エペソ人への手紙三章の十七節~十九節までを読みましょう。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
ここに、「すべての聖徒たちとともに」という言葉がありますが、長い間、私たちの教会が、課題として取り組んできたひとつの言葉のように思います。「一人も残さないで、すべての人」が一緒になって、神様の恵みの広さ、長さ、高さ、深さを知ることができますようにと言うのです。誰かをそのまま置き去りにしたり、見過ごしたりすることなく、「みんな一緒に」と叫びます。私はこのような言葉に触れると、心が熱くなります。なんと素晴らしいことでしょう。
愛による結びつき
ここには、「愛に根ざし、愛に基礎をおいて」とありますが、この言葉からあなたはどのような事を思い出しますか? 私はすぐに、イエス様が言われた「ぶどうの木」のことを考えました。ご存じのように、ヨハネの福音書十五章一節~五節に、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」とあり、ひき続いて、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とあります。私たちをしっかりと結びつけてくださるのは愛であり、神様の愛はとても深くて広く、有機的に結びついているので、簡単に離れてしまうことはありません。このぶどうの木のたとえが、それを説明しています。
主と結びつくということは、枝が幹につながることを意味します。枝は自分の意志で幹から離れたりすることは出来ません。つまり、イエス様につながっているあなたは、自分から離れることは出来ないのです。神様の愛による結びつきは、あなたに与えられているもので、自分でどうにかするという問題ではありません。また、この結びつきは、イエス様との結びつきだけでなく、キリストにある兄弟姉妹の結びつきのことも表していると思います。キリストの体の部分である私たちは、互いにそれぞれ性格も違うし、好みも違ったりしますが、この愛によってイエス様の栄光のためという共通の目的に生かされて、つながっています。幹につながっている枝は、それぞれ別なところにありますが、その役目はぶどうを実らせることです。たとえ離れていてバラバラに見えたとしても、それぞれに同じ使命が与えられています。あなたは、すでにつながっていることを受け止めればよく、みんな一つになろうとして人間的に一生懸命努力する必要はありません。もし、一生懸命になんとか仲良くしようと頑張れば、すぐに疲れてしまいます。決して切り離されないということを、それぞれが受け止めて感謝することでいいのです。それが教会です。