このみ言葉には、次のような言葉が続いています。六節~十二節です。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議あまりにも高くて及びもつきません。私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも、そこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。たとえ私が「おお闇よ私をおおえ。私の周りの光よ夜となれ」と言っても、あなたにとっては闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
この詩篇を書いたダビデは、感覚的に見える三次元の、普通の世界で起こることを理解できないので、この世界から逃れてみようとしたのでしょうか。そして、その結果「たとえ逃れようとしても神様はそこにおられる」と叫んだのでしょうか。また、彼は、ここまで離れた所まで行くと神様おられないだろうと思って行ってみたが、やはりそこにおられたと言ってるようにみえます。彼がどのような状況でこの詩篇の言葉を書いたのか詳しくは分かりませんが、もしあなたが「神様、もう私のことは構わないでください」と言ったとしても、神様はそのように叫ぶあなたを無視するかのように、「私はそこに居る」と言うのです。そして、たとえ「闇の中にじっとしている」と言ったとしても、「昼のように明るい」と言うのです。神様から逃れることは出来ないと考えて、自分の考え方を変えるしかありません。神様は、その愛のゆえに、あなたを見捨てることは決してないのです。
さらに、「あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。」(十三節~十四節)と続いています。ここには、あなたを造られた神様の御業は「奇しい」と書かれています。この言葉は、不思議な事とか、驚くべき事の意味で使われる言葉ですが、私たちの生まれる前に、母の胎内に形ち造られる時から働いておられる神様の御業は、「奇しくて恐ろしいほど」だと言うのです。神様のこのような言葉を聞くと、神様の深い配慮を知って、圧倒されるような気持になります。自分のことばかりを考えていたことを恥じて、御前にひれ伏したくなるのです。そして、「主よ、あなたを賛美します」と叫ばずにおれません。神様の御業が「奇しい」って、本当にすばらしいことです。
神はあなたを知っている
昔ある時、イエス様や私のことを、なかなか受け入れてくれない方がおられて、何度話に行っても、かたくなに拒まれるという経験をしたことがありました。私は、忍耐強くその方の所へ通ったのですが、状況が変わることはありませんでした。そんなことが何度も繰り返されると、正直言って、もうやめた方がいいかもしれないと考える時もありましたが訪問を続けました。ところが、私の祈りは応えられず、状況は少しもよくならないまま、その方は召されて天に帰られました。私は、忍耐強く神様の声に従ってきたのですから、「このようなキッカケを通して関係は回復されました。ハレルヤ!」とみなさんに証しできることを願っていたのですが、結局かないませんでした。自分の心に描いていたような結果は実現しなかったのです。それは苦しい経験でした。
私たちは一生懸命頑張ればいつかは報われと言えるのでしょうか。そのような法則があればいいのですが、神様の約束の中に、そのようなものはみあたりません。
同じような経験が、あなたにもあるかもしれませんが、ダビデが、この詩篇で言っていることは、そのような経験のように見えます。ダビデの知った神様自身の愛の深さ、広さは、祈ればよい結果を得るとか、奇跡が起こるとか・・・ではなく、とにかく「あなたのことは私が知っている」と言うことにあるように思うのです。その深みにおられるイエス様と一緒に、私たちの周りの事を見つめることができると、たとえ状況は変わらなくても、言い知れぬ平和に包まれます。ダビデはそれを知ったのです。