このようなことを考えると、聖書の中の事件をいくつか思い出すかもしれません。例えば、エリシャがやもめの所に行ったとき、彼は「あなたの家には何があるか?」と言いました。彼女が「わずかの油」と答えると、そこからあの奇跡が起こりました(列王4:1-6)。また、5つのパンと2匹の魚を持っていた少年の話もあります。やはり同じように、彼はパンと魚を持っていました。具体的にどのようになったのか、はっきりわかりませんが、とにかくそれをイエス様に渡したとき、奇跡が起こりました(ルカ9章)。これらを見ると、神様はすでにあるものを用いられるように見えます。そうなのです、神様は、本当は何も無いところから何でもお作りになられる方ですが、すでにそこにあるものとか、人が手に持っているものを用いられるのです。これはとても大切なことで、よく学ぶべきことだと思います。
このようなことを聖書が説明する時に用いられる神学的な言葉は、“イエスキリストの受肉”という言葉です。神様が人間と同じ肉体をとって、人になられたことを意味するのですが、ヨハネ1:1に説明があります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と書かれています。ギリシャ語ではこの“ことば”にロゴスという言葉が使われています。「ことば(ロゴス)は神とともにあった。ことば(ロゴス)は神であった。」と言うのです。父なる神様は、イエス様を人間から離れた所におられる方としてではなく、私たちの毎日の生活に入り込むことを望み、この世界に誕生させました。イエス様が人になりました。多くの人は、神様のことを、様々な奇跡を行う特別な方と考えたがりますが、実は、あなたの普通の生活のの中におられるです。それが“受肉”という意味です。目に見えない神が受肉して見えるようになりました。人は、自分が持っていないものをよく考えます。例えば、病気の人は健康のことを、お金の無い人は豊かになることを、教育を受けれなかった人は教育のことを。もっとお金があって、健康で、教養があればいいな・・・と、うらやましがります。イエス様が「受肉」されたという意味は、足りないことを考えることではなく、すでに持っているものを感謝することにあります。神様はごく普通のあなたの生活の中で、素晴らしいことをしてくださっているのです。
さて、モーセが持っていたのは杖でした。それは彼の人生を象徴していたものでした。エジプトから逃げ、羊飼いになるという仕事をしてきたことを表すものでした。彼にとって杖は、単なるアクセサリーのようなものではありませんでした。神がその杖を地に置きなさいと言われたので、そうすると蛇になりました。もう一度それを手にすると杖に戻りました。モーセが自分の杖を手放すためには大きな勇気が必要だったと思います。なぜならそれは自分が築いてきた生活や、これまでの努力によって得られたものを捨てることを意味していたからです。どんな人でも、頑張って努力して得てきた大切なものを手放すことは、そんなに簡単なことではありません。
ここで、モーセには問題があったことをお話ししたいと思います。彼は、自分でイスラエル人のリーダーにはふさわしくないと思っていたことです。約250万人もの人々を導く成功的なリーダーには、明確な理念があって、それを人々に演説できることが必要です。彼は、そのような能力が必要だと考えていました。ところが、4:10を見ますと、「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」とあります。モーセには、話をすることに何らかの問題があったのです。
このような様子を、アメリカのハリウッドで作られているディズニーの映画にしたらどうでしょう。モーセが「私はそんなに雄弁に話せない」と言います。すると「そんなことは問題でない」と神様が言われ、シンデレラに出てくるような魔法使いが現われて、怪しい杖をモーセに向けて、呪文を唱えて変身させます。するとモーセは突然雄弁になり、オバマ大統領と同じように語ることができるようになるのです。その様子がエジプト中に放送メデイアで拡散され、イスラエルの人はモーセをほめたたえて、モーセに従う機運が高まります。モーセは叫ぶのです「Yes you can!」