何にも動じないラザロ
ラザロの態度は、とても自然で静かであって、しかも何にも動じないような信頼感にあふれているように見えます。それを、ある意味、「たくましい」と言ってもいいかもしれません。なぜなら、彼の命は狙われていたからです。
この時、二人のひとの命が狙われていました。人々は妬みと自己保身のために、二人の人をこの地上から抹殺しようとしていました。もちろん、狙われていた一人はイエス様。もう一人がラザロでした。「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ」(ヨハネ十一章五三節)、「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。」(ヨハネ十二章十節)とあります。この時、ラザロはイエス様とほぼ同じ立場になっていました。でも、彼は、ごく普通の態度をとっていたように見えます。この二人は心が一つに結ばれていたのでしょうね。
ラザロは、主が用意された「いのちの杯」から「いのちの水」を飲みました。人目につく多くの人々の中に、ただ混じっていることで、恐れはなかったのでしょうか。不安や葛藤も無かったのでしょうか。死を経験し、しかも復活を経験したラザロにとって、死はなにも恐れるものではなかったのだと思います。彼は、ただイエス様がおられるところに身を置きたかった。イエス様のいらっしゃるところに留まっていたいと願っていたのでしょう。その信頼感が、彼のごく普通の態度となり、何事にも動じない姿になったのです。
ベタニアファミリーはイエス様の十字架と復活を示すモデルだったと思います。誤解を恐れないで思い切って言えば、この場所は「ベタニアファミリー福音教会」だったと言ってもいいかもしれせん。彼らの輝く姿が、イエス様の十字架を考えて、受け止める力になり、イエス様の喜びとなりました。
ベタニアファミリーは皆、同じ杯から飲んで、それぞれの姿で宝を分かち合う土の器たちでした。この土の器は英語ではポット(Pot)と訳されていますが、聖書には複数形のPotsと書かれています。また、別の翻訳ではVesselsとも言われていますが、やはり複数形で記されています。ここで言われる土の器は、ひとつの器で栄光を証しするのではなくて、複数の器が集められてその中の宝を輝かせるのです。
あなたもそのひとつとして集められ、組み合わされて、福音の輝きと香りを放つ教会の一部なのです。