自然にふるまうラザロ
ラザロが選ばれたのは、神様の一方的な恵みによる選びでした。ただ、彼はそれを証しできる土の器でした。つまり、人々が「彼があのような素晴らしい経験をしたのは、彼は誠実な者だったから」とか、「ラザロは決して律法を破らなかった」とか、「きっとあれをしたから」、「これをしなかった」などという事を言われない人だったのでしょう。もちろんラザロはいい加減な人だとは思われませんが、彼は、ごく普通の人だったのだと思います。ただ一つの事だけが聖書に描かれています。
それは、ヨハネの福音書の十二章一節~二節です。
「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」
ラザロは、人々の中に混じっていたとだけが記されています。なんという普通の言葉で、自然なのでしょう。特別なことがありません。もちろん、奇跡を体験した者としての彼の発言はありませんし、その証しがあるわけでもありません。普通で考えれば、「私は奇跡を経験しました」などと、アピールしてもいいのではないかと思うのですが、ただ、「人々の中に混じっていた」とだけ記されています。それはどのような意味だったのでしょう。彼は、イエス様の愛と恵みに包まれて、その力の中に委ねて、イエス様を信頼しました。それが彼の信仰であり、イエス様に対する献身と愛があふれていたのです。
ベタニアファミリーの三人には同じいのちが流れていました。マルタは自分という器を傾け、マリアは香油の器を砕きました。ラザロは、このいのちを受けて、どうしたのでしょう。
ひとつの土の器を通して神様の栄光が現れます。二つの器が集められ、さらに三つの器が一つに合わせられる時に、イエス様の臨在が豊かになります。すばらしいぶどう酒が器に満たされ、その芳醇な香りが解き放たれます。すると、「家は香油の香りでいっぱいに」(ヨハネ十二章三節)なったということを考えますと、私は、ラザロは、あふれる「いのち」を器から飲んだのだと思いました。ラザロは福音の真髄、奥義を明確に伝えるのにとてもふさわしい器でした。それは彼が、「器から飲んだ」からだと思うのです。