選ばれたラザロ
ラザロは、死人の中からイエス様によって生き返りました。死んでから四日もたった後に、常識では考えられない奇跡が起きました。彼は、イエス様の弟子ではなく、愛されていた友と言われています。ラザロの経験は、イエス様が復活されたことと同じだったのでしょうか。一度死んでから生き返ったのですから、イエス様の復活を身近なものとして経験した訳で、このような人は他にいなかったと思います。
イエス様は十字架に架かって死なれる前に、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」(ルカ 二十二章四十二節)と叫びましたが、そう叫ばずにおれなかったイエス様の悲痛な叫びのように見えます。イエス様は、ラザロの復活の奇跡を行う時に、天の父に「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」と言っています。これがイエス様の願いだったのです。ご自分の十字架の戦いの直前に、ラザロを死人の中から生き返らせるという奇跡に、ご自分がこれから通られる道を重ね合わせておられるかのように見えるのです。
ヘブル書十二章二節に、
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
と、パウロは書きましたが、イエス様は、ご自分の前におかれた喜びのために、苦しみを受けられました。その喜びを、このラザロの復活を通して確認し、ご自身の内側に刻み込んでおられたと言えるのではないでしょうか。イエス様ご自身を映し出す器に相応しいのは、他の誰でもないラザロだったのです。
どうして彼だったのでしょう。正直言って、よくわかりません。聖書には彼についての言及や紹介は、ほとんどありませんので、よくわからないのです。彼の性格、働きなどは分かりませんが、私は、それが福音の本質を表しているように思います。
あなたが、イエス様の十字架、葬り、復活による恵みを受取るために、何かの条件は必要ではありませんでしたね。それと全く同じように、ラザロが、死人から生き返るという経験するための条件は全く不要でした。ラザロがどのような働きをしていたか、どのような生まれだったか、どのような性格だったかなど、彼の側に必要なものは何も無かったという事なのです。彼は、イエス様から恵みを受けるために、何も要求されませんでした。ただ一方的に、イエス様が決められ、行動されました。イエス様は、彼や誰か他の人に相談してから奇跡を行ったなどという事は決してありません。救いという福音を受けるには何かの条件は不要です。神様は、私たちに何も要求されません。それが福音です。