会堂建築と共に

堺福音教会が設立されて60周年が既に経ちますが、1983年の「恵みの雨」誌7月号に教会設立30年間の教会成長の区分と歴史について掲載されました。

 

会堂建築と共に       元執事 稲本 都子

 

堺福音教会は設立以来30年の間に3回の会堂建築と3回の増改築を行っていて、それがそのまま教会成長の区分と歴史を物語っているように思います。

 

第一期 開拓期
 私が最初に教会を訪れた時(昭和30年)20名ばかりの礼拝であったように記憶しています。そこはごみごみした町中で、あまりに人目につかない場所でした。戦後の貧しい時代、ダンスホール跡を改造したもので、床がぎしぎし鳴っていました。それでも宣教師を中心に、設立当時のメンバーが切に祈ってようやく得た会堂であったと聞きました。物心両面に於いてミッションに依存していた時代でしたが、宣教師と共に開拓伝道に全力を注いだ時期でもありました。何よりもすばらしかったことは、十字架の恵みが語られ、いのち溢れる教会であったことです。

 しだいにメンバーもふえ、我喜屋牧師の結婚、任職と教会の形が整えられていき、昭和34年には現在の場所(堺市大山町)、仁徳天皇陵のそばに土地を求め、本格的な会堂を建てるように導かれていきました。この頃から私は会計をさせて頂くようになったのですが、一般会計は年間僅か39万円の献金でした。しかし、新しい会堂を建てるに先立ってミッションからのサポートを辞退し、自分達の献金で自給していくべきことを示され、信仰の一歩を踏み出したのでした。

 

第二期 定礎期
 昭和35年、北欧風の落ち着いた美しい会堂が完成。20代の牧師を中心に会員も皆若く、すべてに未熟でしたが信仰の情熱だけは燃えていたように思います。ひたむきに主に期待し、献げ、働いていた時代でした。それは遠くスウェーデンから福音をたずさえて、多くの犠牲を払って労しておられる宣教師達から学び受け継いだ信仰のスピリットでした。無知の強みで恐れを知らずスタートしたものの、現実は厳しいものでした。355万円という力に余る会堂建築と取り組んで、多くの負債の返済に数年を費やしました。しかし、そうした中で信仰が練られ、現在の教会の基礎が確立していったのです。

一方、宣教師を通じて海外のクリスチャン達から暖かい励ましや、個人的な、思いもかけない多額の献金を頂いたことは今も思い出す度に胸が熱くなります。それらの方達の主に在るご厚意は、若い私達に神を信じること、愛すること、献げることのすばらしさを具体的に教えてくださいました。信仰のよき先輩達の模範に習いたいと願ったことでした。堺福音教会は規模に比してよく献げる教会であると言われますが、それはこのようなところから始まっているのだと思います。

 やがて負債もなくなり、徐々に潤い安定してきた頃、道路拡張計画、公園計画の実施により再び会堂の移転に迫られる羽目となりました。今回は前回に倍する大工事となったのですが、それに先立ってすばらしい御霊の傾注が起こったのです。

 昭和42年秋、神様は一人の婦人をアメリカから招いてくださいました。丁度15周年記念聖会を計画中に来日され、講師にお願いしたのですが、実に豊かな聖霊の賜物を経験され、深い知識に基づいて解き明かしてくださるお話に、御霊に対する渇きが強く起こされたのです。祈祷会にそれまでなかった光景を目のあたりに拝することができました。御霊ご自身が主導権をもって多くの兄姉達に臨まれ、次々と解放していかれたのです。現在教会の柱として用いられている兄姉達の多くがこの時に聖霊のバブテスマを受けたのです。会堂建築に備えて真の会堂であるメンバーを用意してくださったのでした。

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