キリストの体の中の私

元執事 稲本 都子

それまでの私は、いつも私個人のことに集中していました「私がきよめられねば、、、」、「私がしっかりせねば、、、」等々、すべての責任が自分にあると思い込んでいたのです。でも新しいご計画の中に自分を見、また兄姉を見ることで出来るようになった時、初めて自由になりました。「私は神の導きと摂理の中を教会と共に素直に歩めばよいのだ、あせったからといって私一人が身体かた飛び出して先に行くことが出来ないし、また自分が僅かなものしか持っていなくても、神様は身体全体として機能するように多くの兄姉を備えてくださっているのだ」と分かったからです。以来、私の関心事は、全体の中で私の分はどこまでか? また、まわりの必要はどのようになっているのか。という点にむけられました。

 「自己を知る」ということは何という恵みでしょうか。聖霊様に心を開いて、自分の心を空っぽに(自分の願いとか、計画とか、考えなど横に置いておく、、、と言うような意味で使っています)なっていると、ふしぎと私が必要とされていることがやってくるのです。そのことに対しては、惜しみなく仕えるのが私の求められる分であって、神様に対して、また兄姉に対して責任があるのです。でもそれ以外は、私以上に適任の兄姉がおられ、その人に神様が語られるはずと信じてきました。
そして、実際にその通りだということは、私のこれまでの限られた信仰生活からも証しすることができます。私には、今日までそのように実践してきて、これでよかったのだという深い安心感があります。もしそうでなかったら私は今までの行きがかり上、(開拓時代は出来ても出来なくてもとにかく何でもこなさねばなりませんでしたので)やはり自分の築いてきたものにこだわって、知らず知らずたくさんのものを自分の腕の中にかかえこんで、本来私のなすべき新しい領域に入っていくことはできなかったでしょう。そしてさらに、きっとまわりの成長の妨げとなっていたことでしょう。

 ふりかえれば、神様が私を導いてくださった場所こそ、魚が水を得たような、私にとって最も無理がなってすべての奉仕を手放しても、少しも執着も感じないし、不安もありません。深い平安(安息)の中にとどまっているのです。この気持ちをきっと分かっていただけるものと思っています。
どうか知ってください。私はこれまで、人の真の必要をご存知であり、またその人をどのように相手のの必要にぴったりとはまらせるかをご存知の聖霊様のお働きに、ただ一歩あとからついて歩くことに集中してきただけだということを。主をほめたたえます。

(病床から書き送った一通の手紙より)

1 2 3 4

メニューアイコン ページトップへ