神のご計画 十字架の主を仰ぎつつ

牧師 我喜屋 美知子

戦後60年、とよく聞くようになりました。時は川の流れに似て、旅人を移し去るのでしょうか。

私の部屋に沢村先生の聖句色紙「汝ら、多くの果を結ばば、我が父は栄光を受け給うべし」(ヨハネ15:8文語訳)を掛けておりますが、教会はこのご委任を果たさなければならないと祈っております。

 

十字架の主の愛を知る

 

私は22歳の秋に、たまたま誘われて行った集会で心の罪が示され、大泣きして悔い改め、十字架の主の愛を知る者となりました。

 そのころの堺市は、昭和19年7月の空襲で中心街は壊滅的に焼失し、多くの人が焼死しました。餓死する人もあり、その無残さ悲痛さ、人生の嵐に方向を見失う友もいて、生きる事が大変な時でした。しかし、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27)。この御言葉によって、私は喜びと平安に溢れて生きるようになりましたが、ニコデモの「神の国を見る」とか「入る」とかは、よく分かりませんでした。

 夏休みに、甲府から来られていた宣教師に声をかけられ祈り会がもたれました。その方が祈り始めると本当に嬉しそうに感謝して祈られるのです。(どうしてあのように、長く祈ることができるのか....)自分の貧しい祈りが情けなく、イヤになって休むようになりました。そんな時によく訪ねて来てくださったのは、先に洗礼を受けられた兄弟たちでした。

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

今もこの湧き上がる水によって、賛美と感謝が溢れでてきます。私は、翌年のクリスマスに受洗したのでした。

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