聖化と聖霊のバプテスマについて

牧師 我喜屋 光雄

栄光の教会

 更に、キリストの栄光の中に何が起こったのでしょう。

 教会がキリストと共に天にあることが完成しました。(エペソ1章17-23節)全領域に満ち満ちた方と なられたキリスト、同時に最優先的に教会の頭となられ、聖霊によって地上にもおられます。又、キリストと 結ばれた教会は満ち満ちた者として天にあることがわかります。(エペソ1章23節、コロサイ2章10節) 聖書を見るとキリストと共に天にあるということは、個人的よりも教会単位であることです。 なぜなら教会はあたかも一人の如く神の前にあるからです。(エペソ5章27節)だから信仰の完成は、 クリスチャン各自の完成でなく教会の完成です。

 

 天では一つの教会ですが、地上では私達は肉体をもって キリストを表現しなければなりませんから、地方教会に分かれ、地方教会がキリストの体として地域で証詞人となり、 光となるのです。教会に二、三人傑出したクリスチャンがいても大した助けにはなりません。しかし平凡でも 強い者も弱い者もいる教会が共通のものに結ばれて一致してゆく時、それはキリストの体となり、機能し、 御霊が働かれるダイナミックな証人となるのです。信徒は一致によって教会に寄与し、教会は一致を通して 個々の信徒を刺激し建て上げます。このようにキリストと共に天にあることは、各自ばらばらにそこにあるのではなく、 教会につながれてそこにあるのです。

 

 さて、聖霊のバブテスマは教会に注がれました。“聖霊があなたがたにくだる時、力を受けて、地の果てまで 私の証人となる。”と主が仰せられた時、それは教会に聖霊がくだる時、教会として私の体として証人となる、 という意味です。だから地域に教会があっても一致がないならば、又教会としての共通理解がないならば、 その様な霊の流れがないならば、キリストは機能することはできません。今日のクリスチャン生活は個人レベルであり、 教会レベルではありません。又たとえ一致を叫んでも、それを可能にする共通の基盤である教会の栄光と聖霊の バブテスマをもっていません。そこに今日の教会の限界があります。

 

 ヘブル書を見ると、教会はキリストの復活に 於いて既に誕生したことがわかります。(ヘブル1章5-6節)キリストはその時、独り子の立場の上に長子の立場を 持たれました。(ローマ8章29節)そしてその教会の誕生祝いがペンテコステです。キリストは教会のために死なれました。 (エペソ5章26-27節、ヘブル2章10-12節)そしてその完成のために祈っておられます。(ヨハネ17章1-26節) キリストは信徒個人の大祭司ではなく、教会の頭としての大祭司です。ちょうどモーセがイスラエルの民衆の、 制度を超えた大祭司であった様に、キリストも天で任命を受けられた体なる教会の頭となられ大祭司となられたのです。 (ヘブル7章16節)

 証詞の力は教会の一致の中にあります。(ヨハネ13章35節)聖霊のバブテスマはこの一致を造ります。 教会は天的であること、お互いはその天的なものにつながれているということ、その証詞としての聖霊のバブテスマが あるということ、この様な共通認識を持つ時、聖霊の流れを理解しその中に入っていくことができるのです。

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