聖化と聖霊のバプテスマについて

牧師 我喜屋 光雄

更に愛の分野が開かれたことです

 聖化における内面のいやしは肉性が切り離されたことです。(コロサイ2章11節)又それは十字架の原理によって 理性的に問題を整理していく過程です。しかし人間の内面には原理によって、信仰によって解放できない深い問題が あります。それは情緒と深く結びついています。

 ある人が理性的に赦しても、赦したものとして処理しても、感情がそれについてこない場合があります。 私達はその問題に触れられることに本能的に恐れます。理性で赦しても、苦い感情をとどめることはできません。 神の愛はそこには限界があるように思います。考えればおかしなことです。神の愛に限界があると信じていることは。 そこには聖化の原理が届き得ないもう一つの分野、御霊によるいやしの世界があるのです。そのためには知性と情が 分けられなければなりません。知性が納得しても情が納得しないその部分に正直になり、それを取り出して神の前に 持ち出し、御霊がそれをとらえてコントロールしてくださいと祈るためには聖霊のバブテスマによって開かれた 愛の領域が必要です。

 

聖霊のバブテスマは又信仰を解放します

 それは異言の通路が信仰の通路であることを体で知るからです。異言を語る状況は多くの非難者が言う様に恍惚状態では ありません。日本語から英語を話すようにごく普通の冷静な状態です。興奮も異様さもありません。非常に自然です。 しかも語る言葉は自分で習ったり造ったりしないで、内から自然に出てくるのですから不思議です。それは本当に超自然的な ルートです。これによって信仰は超自然的であるのに自然的であることがわかります。

 

逆に聖化の道を知らなければ、この恵みを受けても御霊は照らしようがないのです。 逆に聖化の道を知っていても、栄光と聖霊のバブテスマの意味を知らないならば、聖化は人間的、律法的、 この世的になる危険があります。率直に言って、ペンテコステ派の人々も潔め派の人々もそれぞれ一方の 盲点を持っていると思います。

 聖化はキリスト者が十字架を経験する過程です。聖霊のバブテスマは十字架の道のゴールに達したことの 証詞を受けることです。

 キリスト者は栄光というゴールに立って聖化の道程、キリストの死と葬りと復活の道を振り返り、 その往復運動によってキリストを更に深く知っていくのです。

 

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