聖霊のバブテスマの流れ (ヨハネ7章28節)
異言による解放
聖霊のバブテスマの結果として異言があります。これは聖霊のバブテスマそのものです。何故ならば バブテスマの第一の目的は、人間的、感覚的なものから私達を解放することです。そこから一致の可能性が 生まれてきます。人間的レベルでどんなに努力しても、好き嫌い、教えの違い、背景の違い、世代格差、 男女の違い等を克服することはできないでしょう。一致のために人間の次元以上のものが必要です。 聖霊のバブテスマによって異言を語ることによって、この次元の境界線を明確にすることができます。 “異言は人にはではなく神に対して語る”と聖書は言っています。(I コリント14章2節)それは語る本人を 含め誰にもわからない。ここに異言の特徴があります。わからない言葉で祈るのは馬鹿馬鹿しいということを よく耳にします。しかしここに異言の価値があるのです。聖霊のバブテスマは異言による霊の解放ですから、 もし理解できる言葉であったらどうしてそんな必要があるのでしょうか。私達の知性は信仰に、霊的なものに 深く介入していきます。霊のことを感じようとします。心深く霊性が宿っていても今までの習慣で知性が霊的な ことを主導していきます。そこで祈りの限界、愛の限界、礼拝の限界にぶつかるのです。
信仰生活では私の霊性が 主導権をとらねばなりません。そこから知性が介入し得ない霊のみのチャネルが必要なのです。神様は御霊によって 私の霊が直接、人間性を越えて神と直結するように、霊の表現の機能として異言を与えられたのです。 (I コリント14章14-15節)異言そのものよりも異言によって開かれたチャネルを持つことがより重要です。 声に出さなくてもこのチャネルは心の中で絶えず開かれています。このチャネルを通して、環境がどうであれ、 気分がどうであれ、いつでも望むとき、祈りとなり賛美となって神に向かって礼拝することができるのです。 この通路からくる共通の流れのなかで教会は理屈を越えて信仰の一致に導かれます。カリスマ運動における すばらしい光は、このことを通して教会の体意識について明らかにし、それと共に異言の意義が明確にされたことです。