「神の力は偉大であるが、それを制限しているものがある。その一つは教会である」と言われた方が あります。教会はいつのまにか保守的になり、宗教的になるあまり、残念なことですが、不信仰を作っていることがあります。これをクリスチャン個人に当てはめると、信じているけれども、信じ切れな い・・・そのような時の行動に現れてきます。これはサタンの最後の砦として、クリスチャンを責めるチ ャンネルになっています。その砦を私たちはよく知っていますが、知っていながら、どうすることもできないという現実の問題にぶつかるのです。こんな時、どうしたらいいのでしょう? そんな時は、決して強がりを言わずに、不信仰をそのまま告白したらいいのです。あの、てんかんの 息子をもった父親のように「主よ、信じます。信仰のない私を助けてください。」と祈ればいいのです。 あの祈りには、本当に励まされますね。誰にでもできる祈りだからです。「主よ、信じます! 疑わない(ようにして)、がんばって信じます・・・」これはちょっと無理をしている祈りです。不信仰(のよ うに見える)行動をとってはいけないと思うあまりに「どうか私の不信仰がサタンの砦となることがないように、神の力を制限することにならないように、あなたの信仰を与えてください。私は信じること ができませんが、あなたの真実が私のうちにみなぎってください。」と言うことができない人が多いで すね。でも、本当は単純に祈ればいいのです。
みことばを読みましょう。エペソ人への手紙1章1節から5節までです。 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから・・・神はキリストにおいて、天にあるすべて の霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。・・・私たちをイエス・キリストによってご自分 の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」 このみことばから、「神の栄光を見る」という今朝の説教のタイトルが与えられたのですが、神の栄 光とは、神様の臨在のことです。モーセが幕屋を完成したとき、神の栄光が幕屋に満ちたと言われていますが、それは明らかに神の臨在のことをいっています。新約聖書にも栄光という言葉が多く使われて いますが、その多くの場合は、神様の偉大さを表現しています。