与えることは祝福の原理

マルコム・ウェディカム牧師(聖ピリポ&ヤコブ教会)

5.あなたにとっての意味

 さて、このようなことが何を意味するのか考えてみたいと思います。いま、大阪には教会が一つも無くて、あなたが一人でそれを始める状態を想像してみてください。もし、職業を持っている10人の人が“十分の一”をしているとしましょう。そうすれば、牧師が標準的な生活ができるようにサポートできて、そのことを皆が喜ぶことが出来るでしょう。そして宣教が拡大して会員が増えるでしょう。もし、職業を持ったメンバーが20人になれば、牧師の生活だけでなく、教会堂の建物のための必要を満たして、冬の寒さに耐えられる暖房費をまかなうことができるでしょう。さらにメンバーが増えて30人になれば、牧師を支え、教会堂の必要を満たし、さらに宣教師をおくることができます。

 

 しかし、こんなことを言えば、十分の一だけでも大変なのに、それ以外にたくさんの献金をするなんて・・とためらう気持ちになるかもしれません。でも、新約聖書には、喜んで献げるものを神は祝福するとはっきり書かれています。第二コリント 9章7節です。そこには、「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。別の聖書の訳では「必要だからするのではなく」とも書かれておりますから、“十分の一”は必要のために献金して、神様を喜ばすためには、それ以外の献げものであると言えるでしょう。喜んで献げられない人は、あの有名な山上の説教を思してください。マタイ5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」とあります。山上の説教をよく見てくださると、主イエスは旧約時代の標準を下げた事は決してないことが分かるでしょう。イエス様は、むしろそれを上げたのです。そうなのです、もし私たちが、律法のもとにあって、与えることが普通になっているとすれば、恵みによってさらにもっと与えることを実践すれば、それがどれほどすばらしいことなのかを知ることができるでしょう。第二コリント 9章15節には「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」とあり、ヨハネ3章16節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。新約聖書ははっきりと、“与える”ことに対する動機づけに言及しており。それは、私たちに、多くのものを与えられた神の恵みに対する愛と感謝であると言っています。

 

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