与えることは祝福の原理

マルコム・ウェディカム牧師(聖ピリポ&ヤコブ教会)

3.“十分の一献金”の範囲

 さて、私たちが納得するためには、“十分の一”は標準的なことなのかを考える必要があるかもしれません。人々が、宣教などの必要のために“十分の一”を持ってきますが、教会の建設についてはどうでしょうか? ユダヤ人は、これは余分なものとか、別なものと考えました。モーセが幕屋を作る時のことが、出エジプト36章3節にあり、「イスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。」とあります。同じ章には、長老が来て「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」と言ったことがあり、そしてモーセは「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」言って、「民は持って来ることをやめた。」のです。

 

 神殿の場合はどうでしたか?ソロモン王が神殿を建てたことを知っているでしょうが、建設のための必要を人々に訴えたのは父であったダビデでした。それで建設が進められたのです。歴代誌29章9節には「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。」とあります。ダビデ王も非常に喜んだのです。彼らは、自分たちがおしみなく与えることだけでなく、与える事を喜んだのです。 

 

 では、教会の維持・管理についてはどうでしょう? 同じく、歴代誌24章4節には、「その後のことであるが、ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し」とあり、10節には「すべてのつかさたち、すべての民が喜んで、それを持って来て、箱に投げ入れ、ついにいっぱいにした。」と書かれています。つまり、彼らは、“十分の一”以外に、教会の建物のために、またその維持管理のために献げたのです。また、彼らの献げものは、これだけに留まっていませんでした。モーセの書には、“受け入れられる献げもの”、“感謝の献げもの”、“和解のための犠牲”という言葉が使われていますから、彼らはあらゆる機会を使って献げたのです。

 

4.献げることの祝福

 もし、あなたが感謝の気持を持っているユダヤ人であるなら、感謝を献げもので表現するために費用がかかることを覚悟しなければなりません。もし、がリラヤ湖を見て、すばらしいと思ったら感謝の献金をして、もし砂漠を横切るために新しいラクダに乗れば、やはり感謝の献金を、また、ついに結婚することになれば、やはり感謝の献げもの、さらに、もしあなたの義母が天に召されたら、やはり感謝の献金をするのです。あなたの身の上に、何かの感謝の出来事が起これば、神様にそれを表現する、いつもの“十分の一”ではなくて、それ以外に献金をするのですから・・・

 

 実は、彼らの献げることはまだ続きます。申命記16章16,17節を見ますと「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」とあります。なんということでしょう! 彼らは、宣教のために“十分の一”を献げ、その他に神殿の建築のために献げ、感謝を献金で表し、特別な時・・例えばクリスマス、イースター、収穫祭・・にも献金をしたのです。

 

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