愛によって働く信仰

「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」  (エペソ 1:15-23)

 

このみ言葉は、私の好きな聖書の箇所の一つです。ここで、パウロはエペソの教会に対して、彼らがその時には大切に考えていなかったことを指摘したかったのですが、すぐにそれをせずに、まず彼らのことをほめたたえて、励ましています。これは、心理学的に大切なことと考えても良いかもしれません。言いたいことを、すぐに責めるように言ったり、指摘することだけが、いつもよいとは限りません。パウロは、彼らの信仰と愛についてまず述べていることを注目してください。

 

アメリカの説教者である、ロバート・シュエラーは信仰について、とても興味深い表現をしています。彼は、次のように言いました。

「もし信仰を、“やさしさ”と捉えると、そこに含まれる”愛らしさ”を失うことになり、信仰を“思いやり”と考えれば、きっとすぐに“傷つく”ことになるかもしれません。また、信仰を、“礼儀正しいこと”と捉えると、それは、“大切にしたくなる高価な持ち物”のようになってしまいます。さらに、信仰を“保護すること”と考えれば、それをなんとか“失わないたくない”と思うでしょう。そして、信仰を、“栄養を与えるもの”と捉えるなら、それは何かを“育てるもの”になるでしょう。ですから、信仰を雑菌の影響を受けないようにすることが大切と言えるかもしれません。言い換えれば、否定的な考えとか、疑いによる影響・・・それを細菌の影響と表現すると・・・を受けないように・・・積極的なものとして考えることが大切なのです。つまり、第一に「責任ある態度」、第二には、「それによる行動」を大切にしましょう。つまり、そのような視点を持ちながら物事を実行に移すのです。そうすれば、信仰と愛は常に一緒である事を理解することが出きるでしょう。」

 

さて、ガラテヤ5:6には、「愛によって働く信仰」という言葉があります。ここで、すばらしい事は、愛について、「すべての聖徒に対する愛」と書かれていることです。エペソの教会は愛されていたのです! つまり、神の家族として召されている人は、だれでも「愛されている人」なのです。この愛されている人の中に、あなたはもちろんのこと、当然のことながら牧師や教会のスタッフが含まれています。あなたが彼らを愛していることを示すためには、牧師が望んでいることや、やってほしいと言われる事を行うでしょうね。牧師やスタッフにあなたの希望を行ってもらうわけではありません。ただ、あなたが牧師やスタッフに命令してもいいことが二つあります。一つ目は、“1週間にからず1日は休みをとること”。もう一つは、1年間のどこかで、“適当な休暇を取ること”です。もちろんその休暇を有意義に過ごせるような、十分なお金を準備しなければなりませんが・・・・冗談はさておき、16節を見て下さい。パウロは、「感謝する」と言っていますが、その感謝する相手の中には、あなたも入っているでしょうか? もちろんパウロの言葉には、あなたも入っていると捉えて下さい。

 

パウロは、ガラテヤの教会のために祈らなければならない何かの問題を持っていました。ですから16節には、彼らのために祈っている事、それが何のためかを、はっきりと述べています。そのことが17、18節に述べられています。ここで、お分かりのように、パウロは、彼らが聖霊によって、次のような三つの重要なことが啓示されるように、祈っています。

 

第一は、「彼らが召されている」ことを知ってほしいと思っていることです。何事も積極的に考えられるとすれば、それは神様に召されているからです。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネには、「私に従ってきなさい。あなたを、人をとる漁師にします。」と言われました。これは、「神様に従う人」としての召しを示しています。私たちは、実を実らせ、信仰という命を生み出すように召されているのです。

 

第二は、パウロは、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」を知ってほしいと思いました。どうか、ここに彼の(聖徒)受け継ぐものとありますが、私たちとは言っていないことに注意してください。神様は何をなさりたいのでしょうか? 神は、人を・・つまり聖徒のことを考え、しかもあなたの事を非常に重要に考えて、栄光に満たす、すばらしいものを受け継がせるために召したと言うのです。 神はあなたを愛しています。これが、私たちを作られた理由です。

 

第三番目には、使徒パウロは、彼らに聖霊を受けて、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになり、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように・・・と祈りましたが、これを実現したいと思ったのです。私たちは、自分の力によって魂を勝ち取るために召されたのではなくて、神が与えてくださる力に行動するように召されました。 そうです、神が力を与えられるのであり、その力は全能の力、復活の力で、聖霊の力です。 21から23節には、私たちがキリストにあって、どのような立場にあるのかが述べられています。22節には、「いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」とあります。私たちは、神様の体の一部ですから、すべてのものは、このみ言葉通りになっているはずです。とすれば、私たちは、決して陥落することのないところに立っています。いつも勝利に向かっており、勝利の側に立っているのです。

 

私の友人である二人の人は、信仰をどのように働かせるか次のように言いました。その中の一人、ピーター ガーモン博士は「神は、あなたを、山に登る人としてでなく、山を動かすために召した」といい、もう一人のメルビン・バンクは、「あなたの山がどんなに大きいかを神に語るのでなく、山に向かって、あなたの神はどれほど大きい方かを語りなさい」と言いました。マタイ17:20には、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」とあります。これが大切なのです。

 

もちろん、伝道する時にも、宣教師をサポートする時にも、さまざまな問題にぶつかるでしょう。しかし、神様は、信仰を与えて下さって、そのような問題にどのようにしたらいいかを教えてくれます。 そして、もちろん、資金(予算)という実際的なものに対する信仰が必要です。パウロはⅡコリント 8から9章にこのことを述べています。また、ガラテヤ6:9にも、「愛によって働く信仰・・・」とありますが、私たちは、いつもこれによって勝利できるのです。

 

 

主よ 堺福音教会の方が、あなたの望んでいるようにあなたに仕えていくように祈ります。いつも「与え続けるように、いつも戦い、決して傷つく事を恐れないように・・ そして、いつも働き続け、その報酬を求めないように・・・  いつもあなたの御心を行うように・・・」 

 

        アーメン

 

 

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